2011年1月8日

トルコアカデミー勉強会 第二回

トルコアカデミー勉強会を2月9日に行います。

場所: トルコ航空東京支社
時間: 19時~20時

テーマ:2000年から毎年トルコを一人旅している日本の方が旅の体験を語ります。

トルコ語講座も続きますよ。

皆さんをお待ちしております。

2011年1月6日

トルコをもっと知ろう~ ④地理

マルマラ地方
トルコの北東部に位置するマルマラ地方の面積は7万2,845km²で、国土の9.32%を占めている。黒海、マルマラ海、エーゲ海に接したこの地方にイスタンブールとチャナッカレ海峡があり、アジアとヨーロッパをつないでいる。エーゲ海岸沖にあるボズジャ島とギョクチェ(イムロズ)島も、マルマラ地方に含まれる。
他の地方からの移住の絶えないこの地方の人口は、2008年に行われた国勢調査(ADNKS)の結果、2104万4,783人に増えた。このうち1896万9,841人は都市部に、207万4,942人は村落部に住んでいる。
マルマラ地方は、イスタンブール、ブルサ、イズミットを中心にトルコの産業の要となっている。マルマラ地方の主要工業製品は、加工食品、繊維、既製服、セメント、紙、石油化学製品、自動車と自動車部品、金属、電気製品、車両、船舶などである。工業や商業だけでなく観光も重要な収入源となっている。
マルマラ地方は、ヨーロッパとアジアをつなぐ最短陸路と、黒海を地中海へつなぐ海路が交わる地に位置し、他の地方よりも有利な立場にある。そのため、この地方はあらゆる分野で発展し豊かになった。何世紀もの間、数多くの文明が誕生し栄えたマルマラ地方は、歴史的建造物や美しい自然のある、世界でも重要な文化、芸術、観光の中心地の一つとなっている。

国際都市イスタンブール


 8000年の過去の蓄積をもつ歴史的舞台であり、博物館、宮殿、城壁、海沿いの邸宅、豊かな自然を有し、信仰の中心地でもあるイスタンブールは、世界の文化と文明の遺産を有する寛容と融合の都市である。「帝都」イスタンブールは、紀元前 658年にメガラ人によって建設され、ビザス王にちなんで「ビザンティウム」と名づけられた。


マルマラ海と金角湾に挟まれたこの歴史的な半島は、ローマ、ビザンチン、オスマン帝国の首都として、その時代の多くの芸術作品を所有し野外博物館のようである。

オスマン帝国の400年間において政治の中心にあり、現在博物館になっているトプカプ宮殿の世界的に有名な作品やイスラム教の預言者ムハンマド個人およびその時代に属す「聖遺物」などは、多様な宗教や文化をもつ人々の注目を集めている。

イスタンブールには、もう一つ壮麗な宮殿がある。スルタン・アブドゥルアジズの命令により建設されたドルマバフチェ宮殿である。この宮殿は56本の柱で支えられ、4.5トンもの重量のあるシャンデリアで照らされている。トルコ共和国建国の父であるアタチュルクは、1938年11月10日にこの宮殿で永眠した。

イスタンブールに約500のモスクがあるが、このなかで、ミナレットが6本あるスルタン・アフメット・モスクがもっとも有名であ
る。スルタン・アフメット広場にはモスクの他に泉もあり、観光客でにぎわっている。高名な建築家、ミーマル・シナンが造ったスレイマニエ・モスクも重要である。

コンスタンティヌス大帝の時代(4世紀)に建設が開始され、バジリカとして建設されたアヤソフィア博物館は、ビザンチン時代の最高傑作である。高さ55m、幅 31mのドームをもち、面積においてローマのサン・ピュトロ、ロンドンのセント・ポール、ミラノのドゥオモ (大聖堂)に次いで4番目に大きく、年代的には一番古い大聖堂である。カーリエ博物館と地下宮殿(イェレバタン貯水池)も見る価値がある。地下宮殿は、6世紀にビザンチンの人々によって都市に水を提供するため建設され、336本の柱をもつ。

イスタンブールには、これらの他にもイスタンブール考古学博物館、アタチュルク博物館、サドベルク・ハヌム博物館、モザイク 博物館、産業博物館、海洋博物館、トルコ・ユダヤ博物館、乙
女の塔、ガラタ塔、ルメリ・ヒサール(要塞)、アナドル・ヒサール、イスタンブールの城壁など数多くの博物館や記念碑がある。

15世紀にできたグランド・バザールは、観光客が多く訪れる場所の一つであり、中にある4,000軒ほどの店では、宝石、骨董品、絨毯、銀や銅製の土産品、革製の服、木や螺鈿の彫刻などが売られている。17世紀にハティジェ・スルタンによって建てられたエジプト・バザールでは、いろいろな種類の香辛料を見つけることができる。
イスタンブールには新しいショッピングセンターもたくさんある。カローセル、アタキョイ-ガレリア、アクメルケズ、カピトル、カルレフォルサ、プロフィロ、クレ、クレ・チャルシュ、カニヨン、イスティンイェ・パーク、イケア、ジェヴァヒルなどのショッピングセンターともに、イスティクラル通り、ルメリ通り、バグダッド通りも、イスタンブールで人気の高いショッピングエリアである。


いろいろな映画祭や音楽祭、演劇、オペラ、バレエ、コンサートなどの催しや、国際シンポジウム、会議、コンテストなどが開催されるイスタンブールは、世界でも有数の文化都市となっている。毎年6~7月に開催される 「国際文化芸術フェスティバル」には、世界各国から有名な芸術家が参加する。

イスタンブールでは、国際的なスポーツ大会もよく開催される。
キリオスとシレは、イスタンブール近郊の海水浴場である。19世紀にポーランドからの移民が定住したポロネズキョイは、森林に囲まれた最良の保養地である。国立公園のベルグラドの森は広大で「イスタンブールの肺」として知られている。この森にあるアタチュルク樹木園と、オスマン時代からの水道橋は一見の価値がある。シリヴリとケメルには広いゴルフ場がある。

文化の発展

欧州文化首都(Cork)に推薦されたイスタンブールは、2007年11月13日にブラッセルで行われたEU文化閣僚会議で正式に承認された。イスタンブールは「4つの要素をもつ都市」というスローガンのもとに都市のPRを行う。またイスタンブールとともに、ハンガリーのペチとドイツのエッセンも「2010年欧州文化首都」に選ばれた。
イスタンブール、サフランボル、ボアズキョイ、ネムルート山、クサントス・レトーン、ディヴリーのウル・モスクと病院、トロイ遺跡は文化遺産、パムッカレ、ギョレメ・カッパドキアは複合遺産として世界遺産のリストに登録されている。

コジャエリ、サカルヤ、ハンニバルの墓 


産業都市であるコジャエリの周囲は、野菜畑や果樹園で占められている。ローマ時代に「ニコメデイア」という名で知られていたこの都市と周辺には、オスマン時代から残る数多くの歴史遺物がある。近郊の町ヘレケは手織絨毯で有名である。
マルマラ海北部海岸にあるゲブゼも古い歴史をもっており、そこには有名なカルタゴの将軍ハンニバルの墓がある。


広い平野に豊かな農業地域をもつサカルヤも、産業中心地の一つである。

トラキヤ:あたり一面のひまわり畑とぶどう畑 

トルコのヨーロッパ側に位置するトラキヤの肥沃な土地のほとんどで、ひまわりとぶどうが栽培されている。
ヨーロッパからの旅行者がトルコの西門であるエディルネから入国すると、まずトルコ建築の傑作の一つであるセリミエ・モスクと出会う。伝統的なクルクプナルのオイル・レスリング大会は、この町の緑の多いサライイチ地区で行われている。トラキヤの西に位置し、広い海岸やオスマン建築の独特な建築物のあるテキルダーは、ぶどう畑やワイン祭で有名である。自然や歴
史の豊かな地であるクルクラレリは、トルコのヨーロッパ側で最も大きい県である。黒海沿岸のイーネアダとクユキョイは、きめの細かい砂浜の海水浴場で有名である。

2010年12月11日

トルコをもっと知ろう~ ③言語

トルコの公用語はトルコ語である。膠着語であるトルコ語は、モンゴル語、満州・ツングース語、朝鮮語、日本語とともにアルタイ語族に属している。
 
西は大西洋岸から東は太平洋まで、北は北極海から南はペルシャ湾まで広がる1200km2の地域に住む約22000万人の人々が話しているトルコ語は、全世界の言語の中で、中国語、英語、スペイン語、ヒンズー語に次いで
5番目に話者人口の多い言語である。
 
世界に約7500万人の話者がいるトルコ共和国のトルコ語は、20あるテュルク諸語の中で最も話者数が多い。
 
最古のトルコ語の史料は、78世紀に立てられたオルホン碑文である。トルコ語は13世紀にアナトリアで広がり始めた。
 
トルコ語は過去、突厥文字、ウイグル文字、アラビア文字で記されてきた。トルコ共和国建国後には、偉大なる指導者アタチ
ュルクが1928年に実施した文字改革により、トルコ語の音声構造に適した新トルコ文字が作成、採用された。
 
アタチュルクは、トルコ語の純化運動を行うため、トルコ語研究協会の設立に尽力した(1932年)。その後トルコ言語協会に名称を改めたこの研究協会は、トルコ語の改善、豊富化、純化作業を行った。トルコ言語協会は今日においても、あらゆる学術分野の学術用語辞典を出版し、トルコ語に関する基礎データを仮想環境に移すことにより、情報時代に合ったトルコ語の形成に貢献している。

トルコをもっと知ろう~ ②人々

トルコは若者人口の多い国である。
 
2006年に施行された人口サービス法5490号により、トルコの国勢調査の基礎を築く新しいシステムが導入された。このシステムにより、全戸が登録された「国民住所データベース」が作成され、トルコ在住のトルコ国民のトルコ共和国国民番号、外国人はパスポート番号が登録された。こうして住所による住民登録システム(ADNKS)に移行した。ADNKSによると2008年の総人口は、7,1517,100人である。

ADNKSの資料によると、人口の最も多い県は17.8%のイスタンブール県(1,2697,164人)、最も少ない県はバイブルト県(75,675人)である。81県の中で人口の多い県はイスタンブール県に次いでアンカラ県(6.4%)、イズミール県(5.3%)、ブルサ県(3.5%)である。全人口の75%が都市部に住んでいる。

全人口(女性3,560万人、男性3,590万人)のうち、 014歳の人口は26.3%1564歳は66.9%65歳以上は6.8%である。(source:BYEGM Turkiye Kitabi)


 

2010年12月10日

トルコをもっと知ろう~ ①国土


地理的・政治的位置

トルコは、アジア、ヨーロ ッパ、アフリカをひとつに結ぶ点に位置し、地政学的に全世界で戦略上もっとも重要な国のひとつである。また、二つの大陸をつなぐ最短ルート上にあるため、東西文明の交流の地となっている。人の移動と交易路の重要な中心地であるトルコは、東はグルジア、アルメニア、ナヒチェヴァン、イラン、西はブルガリアとギリシャ、南はシリア、イラクと国境を接している。
トルコは、三方を黒海、地中海、エーゲ海に囲まれている。マルマラ海、およびチャナッカレとイスタンブールの海峡は、トルコにおいて地理的に独特の価値をもつ。
国連、欧州評議会、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、欧州安保協力機構(OSCE)、世界貿易機関(WTO)、イスラム諸国会議機構(OIC)、黒海経済協力機構(BSEC)、経済協力機構(ECO)などさまざまな組織のメンバーであるトルコはまた、欧州連合(EU)加盟候補国でもある。

国土面積と地形
北緯3642度、東経2645度に位置するトルコの国土面積は783,602km2で、近隣諸国(イランを除く)および全ヨーロッパ諸国(ロシア連邦を除く)のどの国よりも国土面積が大きい。国土の3%を占めるヨーロッパ側の地方はトラキヤ、残り97%を占めるアジア側の地方はアナトリアと呼ばれ、東西間で76分の時差がある。トルコの陸上国境の長さは2,875㎞、領海線の長さは8,333㎞である。           
地形学上あらゆる種類や年代の地形を有し、高地および山地の多い国であるトルコは、標高の平均が1,132mで、大陸でもっとも標高の高いアジア(1,010)よりも標高が高い。北部と南部は高い山々に囲まれている。北部に連なる北アナトリア山脈と南部のトロス山脈によ り、トルコは標高が高くなっている。               
北アナトリア山脈でもっとも標高が高いのはカチカル山で、ウルガズ山とキョロール山がこれに続く。マルマラ地方にはウル山 (ウルダー)、テキル山、サマンル山地、ウスタンジャ山地が、エーゲ海地方にはコザク山、ユント山、アイドゥン山が、中部アナトリア地方にはクズル山、イドリス山、エルマ山、ハサン山、アヤシュ山が、南東部アナトリア地方にはカラジャ山、ラマン山、ソフ山がある。ネムルート山、アラジャ山、トルコ最高峰である標高5,137mのアール山および死火山であるスプハン山は東部アナトリア地方にある。            
トルコは、黒海地方のバフラ平野、チャルシャンバ平野、メルジフォン平野、中部アナトリア地方のコンヤ平野、地中海地方のチュクロヴァ平野、南東部アナトリア地方のムシュ平野、エーゲ海地方のバクルチャイ平野、ゲディズ平野、ブユクメンデレス平野、キュチュクメンデレス平野など、肥沃な平野に恵まれている。            
トルコは、世界最大の地震地帯のひとつであるアルプス・ヒマラヤ造山帯上にあり、北アナトリア断層上において1939年から現在までに8つの大地震がおきている。         
 河川と湖 トルコは河川や湖が非常に豊かな国々の間に位置している。エネルギー生産発展の可能性が非常に高い河川が流れる水域は黒海流域にある。                           
海に流れる河川にはサカルヤ川、フィルヨス川、バルトゥン川、イェシル川、クズル川、チョルフ川がある。ススルルク川とギョネン川はマルマラ海へ、バクル川、ゲ ディズ川、ブユクメンデレス川、キュチュクメンデレス川、メリチ川はエーゲ海へ、マナヴガト川、アクス川、ギョクス川、セイハン川、ジェイハン川、アシ川は地中海に流れる。               
アラス川、クラ川、アルパ川、ユーフラテス川、チグリス川、チョルフ川は水源がトルコにあり、外国の海へ流れて行く。ユーフラテス川の1,263㎞、およびチグリス川の523㎞の部分はトルコ国内にある。川の大部分が他国を流れるこの二つの川はペルシャ湾に流れつく。
トルコには大小さまざまの自然湖やダムが数多くある。国土の約11%を湖と湿地帯が占めている。湖のほとんどはマルマラ地方、中部アナトリア地方、東部アナトリア地方、地中海地方にある。最大の自然湖は、東部アナトリア地方にある面積3,800km2、深さ451mのヴァン湖で ある。エルチェキ湖、チュルドゥル湖、ハザル湖も湖の多い東部アナトリア地方にある。西トロス山脈の「湖水地域」にある代表的な湖には、エイルディル湖、ベイシェヒル湖、および塩水湖であるアジュ湖とブルドゥル湖 がある。マルマラ海周辺には、サパンジャ湖、イズニク湖、ウルバト湖、マンヤス湖、テルコス湖、キュチュクチェキメジェ湖、ブユクチェキメジェ湖がある。中部アナトリア地方の湖は浅く、塩分濃度が高い。アクシェヒル湖、エベル湖や、面積でトルコで2番目に大きいトゥズ湖はこの地方にある。
気候
 トルコの気候は温帯性気候で四季があり、 異なる季節の風情を同時に楽しむことができる。トルコは、温帯性気候に加え、夏は乾燥する地中海気候の影響も受けている。しかし、東地中海地域にあり、起伏が大きいために降水量が多く、乾燥地帯や亜熱帯地帯と区別される。                 
海までの距離、海抜、山の有無などの理由によって、地方間の気候差は非常に大きい。地中海地方、エーゲ海地方、マルマラ地方南部は夏は暑く乾燥しており、冬は温暖で雨量が多い地中海性気候である。黒海地方は、より温暖で雨の多い海洋性気候となっている。中部アナトリア地方は、夏は暑くて雨が少なく、冬は寒く雪の多いステップ気候である。東部アナトリア地方は夏涼しく、冬は寒さが厳しく雪が非常に多い。南東部アナトリア地方は、夏は暑く乾燥し、冬はあまり寒くならない。(source:BYEGM Turkiye Kitabi)



今月号のクレア・トラベラー発売中。特集「不思議なイスタンブール。エーゲ・地中海の魅惑」。今まであまり知られていないトルコの様々なところが紹介されています。

2010年12月8日

決して恩を忘れないトルコ【テヘランの日本人を救ったトルコ】

「ふるさとからあなたへ~日本トルコ120年の記憶~」

番組情報です。

NHKBS-Hi 「ふるさとからあなたへ~日本トルコ120年の記憶~」(43分)
放送日 12月14日(火) 午前09:00~
             1月 6日(木) 午前01:45~ (水曜深夜)

日本とトルコの友好の礎となった、120年前のトルコ軍艦の遭難事故。救助にあたった和歌山県串本町の人々とトルコの人々の子孫の思いを描きます

詳細:

2010年12月5日

トルコアカデミーがスタートしました。
12月1日に30名が参加した一回目ののテーマは「トルコ入門・トルコ語入門でした」。
次回は2011年2月。日付と内容を近日中に発表します。

トルコと日本の交流の原点

軍艦エルトゥールル号


1887 年明治天皇の甥にあたる小松宮彰仁親王殿下、同妃殿下がイスタンブルを訪問した際に、アブドュルハミト 2 世は明治天皇より勲章を賜り、それに対し日本に答礼使節を派遣することを命じた。この使節にイスタンブルの造船所で建造された軍艦エルトゥールル号が選ばれた。この軍艦は三角の帆をもつ機帆船であった。 609 馬力の機関をもち、排水量 2400 トンの木造艦であるエルトゥールル号は建造より 25 年を迎えていた。およそ 1 年前に木造部分が修理されたが、機関部分は放置されれいた。

特使はオスマン大佐、艦長はアリ中佐であった。艦には特別に選抜された 56 人の将校を含め 609 名が乗員していた。その年、海軍士官学校を卒業した若い少尉たちのほとんどがエルトゥールル号に配置され、この遠洋航海で経験を積むことが目的とされた。この軍艦はアブドュルハミト 2 世より明治天皇への勲章や贈物を携えていた。

軍艦エルトゥールル号は 1889 年 7 月にイスタンブルを出航し、様々な港に寄港しながら航海を続けた。軍艦はシンガポールに寄港したときに特使オスマン大佐は提督へと昇進した。特使は立ち寄った各国の国民やムスリムたちに熱烈な歓迎を受け、あるときは何千人から成るグループが艦を訪問した。エルトゥールル号は出航より 11 ヶ月後の 1890 年 6 月 7 日に横浜港へ到着した。

明治天皇はトルコの提督を歓迎し、民衆はトルコの提督が馬車で引見に向かうのに親愛の情を示しつつ見送った。

軍艦エルトゥールル号では日本の海に停泊している 3 ヶ月の間、周囲の何千もの日本の舟に 50 人編成の楽団によるコンサートがおこなわれた。そして帰国の途につくにあたって必要な準備が調ったのである。まさに出航する日、日本海軍が日本に近づく台風があることを理由に出航の延期を勧めたが、これにもかかわらずエルトゥールル号は予定通り 1890 年 9 月 15 日に横浜港より出航した。串本近海で台風につかまったエルトゥールル号は 1890 年 9 月 16 日に岩礁に衝突、沈没した。遭難事故からわずか 69 人の命が救われ、オスマン提督を含むその他の乗組員は犠牲となった。

軍艦エルトゥールル号の悲劇の結末はトルコと日本の民衆の距離を近づけることとなった。地域の住民が被害者の救済にあたり、親身になって介抱した。山田寅次郎という人物は、犠牲者とその家族たち送る義捐金を募った。集められた義捐金はこの人物によって、ときのオスマン帝国のスルタンに手渡されたのである。一命を取り留めた 69 人の乗組員たちは明治天皇の意向により、「比叡」と「金剛」の両軍艦でイスタンブルまで送り届けられた。

この事故における犠牲者たちを悼み、串本では慰霊塔が建設された。最初の慰霊塔は日本側によって 1891 年に建立され、 1929 年に拡張された。 1929 年 6 月 3 日には昭和天皇が行幸した。 1937 年にトルコによって慰霊塔は改装され、その後、毎年慰霊祭がとり行われている。

串本町はトルコのメルシン市とヤカケント町と姉妹都市となった。 1974 年には串本町に建設された「トルコ記念館」でもエルトゥールル号の模型と乗艦していた海兵隊や将校の写真や像を見ることができる。